【母の日】いつから?なぜカーネーション?母の日の由来絵本もおすすめ《子どもに教えてあげたい行事の由来②》

母の日のカーネーション
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5月の第2日曜日は『母の日』です。同じく5月の行事である「端午の節句」に比べて『母の日の由来』はあまり話題になりません。幼稚園や図書館でも『母の日の由来』の劇や読み聞かせというのはあまり聞かないのではないでしょうか。「こいのぼり」や「端午の節句」には1200年の歴史がありますが、母の日は100余年前に始まった『ばかり』ですから、歴史の長さの違いかもしれません。

「こいのぼり」や「端午の節句」の1200年の歴史についてはこちらで読めます。

端午の節句の由来

【子どもの日】こいのぼり&子どもの日の絵本を読んだら話してあげたい端午の節句の由来《子どもに教えてあげたい行事の由来①》

2017年4月24日

 

母の日の由来はアメリカ

母の日の由来は100余年前

現在の『母の日』の由来は、20世紀の初めにアメリカで、ある女性が亡くなった母親のために『追悼会』を開いたことにあります。賛同者たちの後押しもあり、その後この女性はアメリカ全土で「母親のための祝日を作る運動」を始め、7年後の1914年に5月第2日曜日が『母の日』としてアメリカの記念日に制定されました

母の日の由来となった女性

母の日の由来アンナ•ジャービス母の日の由来であるこの女性はアメリカの社会活動家でアンナ•ジャービス(写真:Wikipediaより)と言いますが、追悼会にたくさんの人が集まるほど人望があったアンナの母親も生前に幅広い社会活動をしていました。

アンナの母親が亡くなる40年ほど前に南北戦争が始まったのですが、アンナたちが暮らしていた町には北軍と南軍の両陣営の駐屯地があり、戦争の最前線になっていました。アンナの母親はすぐに中立を宣言し、他の女性たちと共に南軍北軍の区別なく負傷兵を看病しました。南北戦争が終わるとアンナの母親は子どもの教育支援や平和活動を続け、その活動は娘のアンナに引き継がれました。

カーネーションの由来は母親

母の日のカーネーションはなぜ?

アンナの母親が亡くなった2年後にアンナが開いた『追悼会』には、南北戦争中に命を救われた元兵士や共に活動した女性たち、支援を受けた子どもたちなどの多くが参加しました。この参加者たちにアンナは母親が好きだった母との思い出の『白いカーネーション』を贈りました。そのためカーネーションが母の日のシンボルになりました。(写真:Wikipediaより)

その後、白いカーネーションは母親が他界している場合に使うようになり、母親が健在であれば赤いカーネーションを贈るようになりました。それが子どものいない母親への配慮やキリスト教的な考え方から徐々に赤いカーネーションを贈ることが一般的になりました。

キリスト教では「白いカーネーションはキリストとマリアの象徴」、「赤いカーネーションはキリストが流した血の象徴」で、赤いカーネーションは白いカーネーションがキリストの血で染まったものだと考えるのだそうです。

 

母の日の由来となった時代

アメリカは南北戦争という時代

母の日が日本に伝わったアメリカ南北戦争、ウィルソンズ・クリークの戦い母の日が制定されたのは20世紀に入ってからですが、母の日の由来に大きな影響を与えた南北戦争は19世紀の半ばごろのことです。

1861年に始まったアメリカの南北戦争はアメリカ軍同士の内戦で、奴隷制度を廃止したい北軍と奴隷制度を廃止したい南軍との戦いでした。南北戦争は北軍が勝ったのですが、もし南軍が勝っていたら今ごろアメリカ合衆国は『アメリカ連合国』と呼ばれ、USAではなく『CSA(Confederate States of America)』と表記されていたことでしょう。南北戦争はアメリカにとって天下分け目の戦いでした。

母の日の由来になった時代のアメリカ南北戦争を舞台にした小説若草物語そんな南北戦争時代のアメリカを舞台にしている小説に『若草物語』がありますが、この小説はハウス世界名作劇場で『愛の若草物語』としてアニメにもなりました。南北戦争に出征している父親の帰りを待つ4姉妹と母親の物語で、黒人女性が使用人として登場します。

もしアンナ母娘が『若草物語』の小説に登場していたら、年齢的に、アンナの母親は「4姉妹の母親」と同世代で、アンナが生まれたのは南北戦争中ですからアンナは4姉妹の末っ子エイミーよりも小さい「生まれたばかりの赤ちゃん」として描かれたことでしょう。

日本は明治維新という時代

母の日の起源は100年前、日本は大政奉還アメリカ人が南北戦争をしている頃、日本は明治維新の真っ直中でした。明治天皇が即位し、大政奉還により江戸時代が終わったのは1967年のことです。この絵は邨田丹陵による『大政奉還図』(Wikipediaよりです。

 

母の日制定に失敗ジュリア•ウォード•ハウアメリカの幻の「母の日」

実は、アメリカで「母の日」という名前の記念日を作ろうとしたのはアンナが初めてではありませんでした。アンナがまだ2歳だった南北戦争終結直後に、アンナの母親の友人であり女性参政権運動家であったジュリア・ウォード・ハウ(写真:Wikipediaより)が、夫や子どもを戦場に送るのを今後絶対に拒否するために「母の日宣言」をしています。ハウが目指したのは、母への敬愛と感謝のための「母の日」ではなく、母として愛する家族を守りたいという「母という立場からの人権記念日」の意味合いが強いものでした。ハウの活動は広く普及することなく収束してしまいました。

 

母の日が日本に定着したのは

母の日が日本に伝わったのは

母の日が日本に伝わった大正時代のできごと、東京駅開通母の日が初めて日本に伝わったのは大正時代でした。アンナ•ジャービスが青山学院にメッセージを送ったことから、青山学院では「母の日礼拝」という礼拝が行われるようになりました。その後アンナの考え方に賛同した女性宣教師たちによって母の日は熱心に広められたと言われます。

大正時代はデモクラシーの時代でした。この写真は大正時代の東京駅です。大正3年に東京駅開業式(写真:国立国会図書館より)が行われています。

こうして母の日は日本に紹介されたものの、時代はすぐに第一次世界大戦に突入し、母の日が日本で定着することはありませんでした。

最近の連続テレビ小説では『花子とアン』や『ごちそうさん』などが大正時代を舞台にした作品でした。

 母の日が日本に広まったのは

実は第二次世界大戦直前の1937年5月8日に森永製菓が「森永母の日大会」を開催しており、「母の日」という名称と「母の日」は5月に行われるということが一般に知られるようになりました。森永製菓の母の日大会が直接母の日制定のきっかけになったのかどうか定かではありませんが、戦後、アメリカに倣い5月の第2日曜日が「母の日」と定められました。

日本の幻の「母の日」

母の日は3月になるはずだった!?実は日本の「母の日」は3月6日になるはずでした。第一次世界大戦が終わり、第二次世界大戦が始まる前のつかの間の平和な時代に、日本では大日本連合婦人会という組織によって香淳皇后(写真手前:Wikipediaより)の誕生日を「母の日」としようとする運動がありました。それが3月6日だったのです。しかし3月の「母の日」が十分に普及する前に第二次世界大戦が始まることとなりました。

 

母の日の由来が絵本で読めます

教育画劇の「行事の由来えほん」シリーズです。かわいい子ネコと一緒に母の日の由来エピソードと、なぜカーネーションを贈るのかが楽しく読めます。

母の日の由来絵本『こねこのははのひ』

《4歳~》母の日の由来「なぜカーネーション?」が分かるおすすめ絵本『こねこのははのひ』

2017年5月9日

 

 

 

素敵な母の日をお過ごしください。

 
 
 
 
 
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母の日のカーネーション

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